第5話
それから二人は二人だけで旅を続けた。
魔犬の気配はどこまでも追ってきた。軽率に襲い掛かっては来ない。ロギ一人が相手ならそうしたかもしれないが、明らかに僧侶と思われる相方がその背を守っている。
魔犬は僧侶とは相性が悪い。破邪結界を張られただけで手が出せなくなるからだ。故に魔犬使いディルマは、彼らの油断と消耗を取り敢えず待つことにした。時間はまだ、ある。
そう、いつまでも時間がある訳ではなかった。トゥマのさらに北、国境を抜けたならそこはバド=アイド連合領の領内になる。そこで厄介事となれば、「紅鷲」が黙っていない。ディルマが追えるのはその境まで。ロギもそれを解っていた。だから隊商が進んだルートを外れ、最短距離で国境を目指すルートを採った。良い判断だった。しかし運は彼の味方ではなかった。
「来たか……」
ディルマはそう呟いた。
「……道理で寒い訳だ」
ソルは空を見上げてそう言った。
雪が、舞い落ちていた。
冒険者にとって最も厄介なものは何かという問いの答えは多岐に渡る。ある者は魔物と言うだろうし、ある者は人間だと言うだろう。またある者は自然だとも。
どれも正解だ。それぞれの冒険者には得手不得手があり、目的も行動範囲も異なるのだから。が、そんな彼らは概ね、次に厄介なものは何かという問いに、こう答える。
重さ、だと。
装備の重さはそのまま冒険者の負担となる。馬や従者をどれだけ用意しても、それらを維持する装備がまた増える。管理の手間もだ。故にどんな冒険者も無限に装備を増やすことはできない。
ロギとソルは雪山を踏破する装備を持ってはいなかった。隊商には最低限の装備があった。しかし今はない。
無論彼らは魔法という便利な術を身に着けている。凍てつく寒さから身を守り、雪道を専用のブーツ無しに踏み越える術式も存在する。
しかしロギは得手ではない。彼は戦闘に特化した魔導師であるその身を呪うことになる。ソルは問題なく魔法を用いて歩を進めるが、ロギはおぼつかない。
「……いいよ。僕がやるから」
「しかし……」
ロギは断ろうとするが、そこに意地や見栄はなかった。既にその域の問題ではなかった。例年より十日ばかり早い降雪は徐々に彼等の視界と足場、そして貴重な魔力を消費させてゆく。頼るべきものは互いだけ。国境は近いが、あと最低一つは山を越えなければならない。
ディルマは使いの犬から彼らの状況を把握し、襲撃するポイントを定めた。獲物は既に、彼の仕掛けた罠の中にあった。
***
「君の理由は?」
「私の?」
「そう、何で僕でなきゃいけないと思ったのか聞かせてもらえるかい?」
ソルは問いかけていた。先日、ライラを巻き込んでまでロギが自分を仲間に引き入れようとした理由を。
「……貴方が優秀な僧侶であり冒険者だからですよ。シグラでの戦いでそれを誰よりも知ったのは、他でもない私です」
「それは光栄だけど、本当にそうなの? 思えばあのときから君は随分僕に肩入れしてくれてた気がするけど……」
ソルがそう言い、言葉を切った。ロギは観念し、告げた。
「……5年前。ロジマ領に私はいました」
「え……」
「そうです。カーマヤ正規軍、ソル戦士長。私はあのとき、貴方の敵方で戦っていた魔導師部隊の生き残りです」
第6話
ソルは元々、正規軍兵士の家に生まれ育った。剣と槍を学んで育ち、やがて父親同様の戦士として軍に入った。ある意味エリートだった彼は、カーマヤとロジマの小競り合いが起きた際、初陣ながら20人規模の小隊の戦士長を任されていた。
ソルは懸命に、勇敢に戦った。戦局は彼らの優勢ではあったが、それはロジマにとって想定の範囲内だった。この小競り合い自体が外交のカードでしかなかったのだった。
カーマヤ軍がロジマのある区画を占拠する間に、ロジマの別動隊が他の区画を占拠。トータルで痛み分けとし、和平。それらは筋書きの通りだった。
悲惨だったのは両の兵士達である。特にロジマのある一部隊はカーマヤ軍に攻囲され、無残にも全滅した。その部隊の生き残りが……
「あのときの?」
ロギは無言で頷いた。言われてソルは気づいた。確かに捕虜とした魔導師の中に、ロギと同じ面影があったかもしれないと。
「そういうことです。私は貴方に恩がある。あの修羅場で貴方だけが冷静に判断を下し、私達捕虜を殺すことなくロジマに帰還させた」
「当然のことをしただけだよ。上からの指示で」
「あの状況で? 伝令もロクに走れない泥濘の谷底でそんな指示が? それを順守した? それを当然と言い切れるならやはり貴方は私が選んだ通りの人ですよ。……今度は私の質問です。何故剣を捨てたんですか?」
「即答してもいいかな」
「どうぞ」
「もうこりごりだったからさ。分かるだろ、あの修羅の巷にいた君ならさ」
「……ええ」
その馬鹿げた戦闘の後、ソルは剣を捨て、家を出た。教会に入り、神学と魔法を学んだ。自らの足で路を探すために冒険者となった。その路が血に濡れてないとは思わなかった。ただ、国の思惑で左右される人生からは距離が置けたと思った。
そしてシグラ市に行き着き、街を護っていた、まだ少女と言っていい歳の戦士ライラと出逢った。互いに傷を持ち、それでも懸命に生きる路を探す二人は、手を取り合って生きることを誓った。
「冒険者としての目標レベルを決めたのもそれが理由だよ。ただ、辿り着く場所が欲しかっただけなんだ」
雪を踏みしめ歩きながら、ソルはそう言った。
「なら、なおのことこんな場所で私を助けてる場合じゃないでしょう」
ロギはそう再度言った。
「もう遅いよ」
ソルは振り返って、笑った。
雪深い坂道。視界を遮るもののない開けた場所。その周囲を、30頭の魔犬が囲っていた。僧侶と魔導師、二体の獲物を中心として。
第7話
魔犬に囲まれた場合、僧侶のセオリーはまず破邪結界を張ることだった。そこから威嚇や、他のメンバーによる遠隔攻撃で蹴散らす。可能ならこれが最善手だ。
しかし開けた場所で遠隔攻撃を得意とするロギがいながら、その戦法は使えない。理由は単純。魔力の残量が最早乏しいからだ。
この戦闘を勝ち抜いたとしても、山を下りる際に必要な魔力が残らなければそれは死を意味する。故に結界を張って魔犬を近寄せないという戦法は捨てざるを得ない。
近接戦闘で殲滅、或いは魔犬の使い手であるディルマを排除する。そのどちらかしか採る手立てはない。
二人はディルマの罠に完全に嵌り込んでいた。しかし逆に、当のディルマからすれば完璧な罠とは言い難かった。獲物の魔力残量は外から幾ら見ても、結局は想像に頼る他ない。
国境までの距離、ディルマ自身と、彼の犬たちの体力、地形、それらを考慮しての仕掛けとしては、今が最大の好機と思えただけだった。
結局は最適解だったと言えたのだが。
(「かかれ…!」)
ディルマが魔犬達に指示を出す。先鋒は6頭。素早く散開した後、タイミングを合わせて各方位より飛び掛かる。獲物は二人。その手は合わせて4本。並みの相手ならそれだけで片が付くが、相手が並でないことはディルマも犬達も心得ていた。
突然、1頭の魔犬が脚を取られ、雪原に転がった。同時にロギの魔法が雪を散らし、比較的近い距離で固まっていた犬を3頭宙に舞わせる。タイミングを外され、残る2頭は攻撃行動を中止。
爆発魔法はロギの十八番であり、その精度も威力もディルマの勘定に入っていた。準備は周到。だから宙を舞った犬達も大したダメージはない。
だが最初に転がった1頭には一体何が? 攻撃を受けた様子もないが、脚を引きずっている。
(「やはり手練れの僧侶か…。やっかいかもな」)
魔犬4頭の陰に隠れた位置から、ディルマはロギとソルの力量を測る様に状況を眺めていた。戦闘経験豊富な彼は、先の一合でソルが雪原の何箇所かに物理結界を設置済みなのを把握した。なるほど、小さな物理結界なら破邪結界を維持するよりは魔力消費を抑えられる。
だがそれはそれで手の打ちようが……とディルマが思うより先に、ロギが動いた。戦闘用の杖を携帯できていなかった彼は、樫の棒を一本、杖代わりに構えていたのだが、それを雪原に突き立てて手を離すと、素早く、しかし大きく息を吸った。
音に力を乗せて飛ばす。
音は空へと溶けて行く。
リュートも持たない吟遊詩人の、無伴奏の歌が周囲を満たした。ソルはあらかじめ耳を塞いでいるが、犬とディルマは違う。
まともに聴けば10秒で眠りへと落とされるロギの催眠魔法歌唱。それが効果を発揮する……はずだ、というタイミングで、ディルマもまた動いた。
弾かれた様に、ほぼすべての魔犬がその場にて宙を仰ぎ、吠えたてる。ディルマは当然、ロギの魔法歌唱というカードの存在を事前の情報で知りえていた。故に吹いた。魔犬を操る緊急の手段であり合図であった犬笛を。それに応じて咆哮する犬達。ロギの歌はその音に効果を著しく減ぜられる。それでも数頭は激しい睡魔に襲われ、身を低くし、動かなくなった。
(「想定通り、上等だ…!」)
ロギも、そしてソルも同時にそう考えた。この一瞬が勝負だった。ソルは跳び、そして駆けた。柔らかな雪の上を、大股に、何でもない普通の靴で。
雪原にあらかじめ配置しておいた物理結界の位置を、ソルは無論把握していた。ロギと昔話に興じていたそれなりに長い時間を無為にする訳もなかった。罠に嵌めたはずのディルマは、5秒後に知った。罠に嵌っていたのが自分であったのを。
本来人間に懐かない魔犬に指令を送る方法は幾つもある。だが遠隔から最も効率的にそれが行えるのは魔力付与を行った犬笛であり、犬達が激しく吠えているこの瞬間には精度の高い指令は送れない。ロギが単独であったならほぼ確実に勝てたであろうディルマは、有能なたった一人のパートナーの勇敢なる疾走に対し、今一歩遅れを取った。
「王手詰みです。犬を伏せさせて」
至近距離で発動した破邪結界により、魔犬の囲いを引き剥がされたディルマの胸元に槍を突き付けて、僧侶ソルはそう告げたのだった。
第8話
ディルマは一度受けた依頼を無断で放棄するような輩ではない。それは彼の信用に関わるからだ。故に彼は、ロギを始末するために全力を注いだ。
しかし叶わなかった。ならば彼の任務は失敗であり、失敗であるならそれは認めねばならない。
「分かった。降参する」
魔犬使いはそう言った。その言葉に偽りはない。ソルの了解を得て一度だけ犬笛を吹き、犬を黙らせてその場に伏せさせた。ロギの歌は、彼らを簡単に眠らせた。
ディルマもまた眠らされ、その場に縛られて置き去られた。あとは運だ。凍死するより先に目覚めることができれば、命くらいは助かるだろう。
ロギとソルは先を急いだ。追手の影はもうない。思いの他魔力を消費してしまったが、残りの行程であればギリギリで冬の山地を踏破できる。
その計算に誤りはなかった。正しい計算だった。つまり、ギリギリだったのだ。
数十年に一度という規模の吹雪さえなければ、彼らは無事に、ライラの待つバド=アイドの集落に辿り着けていたのだから。
***
ロギは目を開けた。何も見えなかった。
ただ闇だけがそこにあった。
しかし声が聴こえた。問う自分の声と、答える彼の声。
ただ振動を感じた。身体が揺すられ、体重が前へ前へと移動して行くその振動を。
体温を感じた。自分の身体を背負い、雪の中を這うように進むソルの体温を。
「生命とは、それだけの価値があるものなんですか……?」
「それは君が……決めたらいい」
「魔物と……獣と……魔族と人間。……敵と、味方との……その差は?」
「それも……君が決めるんだ……」
吹き荒ぶ雪の嵐の中で、互いの声がなぜか、はっきりと聴こえた。それだけ距離が近かったのだ。動けなくなったロギを、ソルは残る体力と尽きた魔力の残滓とで、必死になって冷気から守りつつ、運んでいた。彼と彼等との辿り着くべき場所を目指して。
「ほら……ね。言ったろ? 僕は君を……助けに来たんだって」
突然、勝ち誇ったような声。ロギは確かにその声を聴いた。
ただ闇だけがあったはずの彼の目の先に、仄かな灯りが見えた。人家の灯りが。
ソルと、ロギとは、遂に踏破したのだ。トゥマの山地を。冬の障壁を。
そしてロギは、ソルのその高らかな勝利宣言に答えることなく、開いていた眼を、静かに閉じたのだった。
最終話
夢だったのだろうと彼は考えた。コントラストが強すぎたのかもしれない。
あまりにも冷たく凍てついた闇の次に、彼が感じたのは優しい灯りと暖かさであったから。
天窓から日差しが降り注いでいた。動くこともできないまま、彼はただ、それを眺め、そしてまた、眠りについた。
***
声が聴こえた。「目が覚めたのか、良かった」そう喜ぶ声。聞き覚えの無い、しかし優しい老境の男性と、同じく老いた女性の声。
答えることのできないまま、彼はまた眠りに落ちた。
***
口を暖かい何かが通り抜け、喉を通り、体内へと落ちていった。少しずつ、少しずつ、彼は自分の命がまだあることを感じ始めていた。
***
目が「彼」を探した。「彼」は見つからなかった。
***
声が、漸く、空気を震わせることを許した。
彼は呼び、問うた。答えは、なかった。
***
心が重い。
***
何も考えられない。
***
そして彼は、再三問うた。優しい老紳士と、逞しい老婦人に。
震える声で、確かに、問いかけた。
「私の、大切な友達は、どうなりましたか?」
と。
老紳士は思案して、彼の心ができるだけ落ち着くのを待ってから、優しい声でこう答えた。
「残念だが、亡くなってしまっていたよ」
と。
コメントを投稿するにはログインしてください。